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Vol.39
夢をつかむ覚悟と責任
プロへの扉を開く若きストライカーの挑戦

木原励
サッカープレイヤー/京都橘高等学校サッカー部

2021/12/03

2001年創部の若いチームながらも、全国に名を知られるサッカーの強豪校・京都橘高等学校。エースストライカーであり、キャプテンとしてチームを牽引しているのが3年の木原励だ。鋭い抜け出しや左右両足から放たれる強烈なシュートを武器に活躍し、高校卒業後には名門プロチーム「浦和レッドダイヤモンズ」への加入も内定。浦和が下部組織出身ではない高卒FWを獲得するのは18年ぶりということからも、その期待が伺える。そんな木原だが実はユース出身。なぜ高校サッカーに移ったのか? そこで何を学び、何を目指すのか。2021年10月13日、木原の学び舎を訪問。優しげな瞳と爽やかな笑顔が印象的な青年が、ゆっくりと胸の内を語ってくれた。

プロになる。そのために決めた選択肢

「小さい頃からサッカーばかりやっていました」と笑う木原。友人の影響で地元の少年サッカークラブに入ったのが4歳の頃だった。小学5年になったある日、関西中から有望な子どもが集まるセレッソ大阪のサッカースクール「エリートクラス」と所属クラブの試合が行われた。そこで活躍した木原は、セレッソ大阪の目に留まって、エリートクラスの練習にも参加するようになる。プロを目指そうと思いはじめたのもこの頃だ。

中学時代はセレッソ内でジュニアユースへ昇格。ハイレベルな選手たちと切磋琢磨しながら、さらにプレイを伸ばしていく。「高校生になったら、そのままユースへ上がるつもりでした」と言う木原。高校サッカーは視野になかったが、偶然見た試合が鮮烈に印象に残った。「当時、京都橘のキャプテンでエースだった岩崎悠人選手(サガン鳥栖)の圧倒的なプレイが衝撃で。もし、高校サッカーに行くとすれば京都橘かな」と思うようになった。

順調にプロへのステップを刻んでいるように見えるが、中学時代は怪我の連続。試合に出られないことも多かった。怪我に悩む木原に、小学生の頃に通っていたフットサルチームのコーチが声を掛けた。「JARTA体幹トレーニングというプログラムを教えている方で、ジムに誘ってくれました。取り入れてみると怪我が減ったし、京都橘も導入しているトレーニングだったんです」と、身体の変化と共に京都橘への興味も増した。

怪我を克服したかに思えた中学3年の春、不運にも腰椎分離症を発症。しばし試合から離れることになってしまう。「ゆっくり考える時間ができました。振り返って思ったのは、ユースの恵まれた環境に甘えていたんじゃないかと。それに加えて、ユースからセレッソのプロになるのが目標でしたが、裏を返せばセレッソのプロにしかなれないとも感じたんです。高校サッカーに進めば選択肢が広がる。プロになるために京都橘へ行くとを決めました」

相棒の不在で飛躍するストライカーの才能

2019年、京都橘へ進学。高い実力が認められて1年からトップチーム入りを果たす。ユースとの違いについては、「ユースでは個人のレベルが高いからこそ、考えなくてもプレイできたというか。京都橘は個人のレベルが高いうえに、ボールをつなぐコンビネーションも上手い。頭で考えないとプレイできないと感じました」と木原。先輩のプレイからコンビネーションを学び、さらにプレイの幅を広げていく。

2年の時には、1年上の先輩である西野太陽(徳島ヴォルティス)と共にツートップへ。「プレイが自分と似ていると感じてました。それに、太陽君はゴール前のレベルがすごく高い。攻めのバリエ―ション、シュートに繋げる動きなど、自分に足りない部分を学ばせてもらいました」。二人はお互いを刺激し合うことで成長。多くの試合でインパクトを残し、全国屈指のツートップとして知られるようになる。

着実に成果を挙げていくが、2年の夏休みは事情が違った。相棒の西野がプロチームの練習へ参加するため、チームを不在にすることに。折しも、新型コロナウィルスによる初の緊急事態宣言が発令されたのが、この年の春。思うようにプレイできない時期が続いていたタイミングでもあった。「僕がチームを引っ張らなくてはと思っていたんですが、スイッチが入らなくて……」。とはいえ、プロになるためには2年の時に活躍して、プロチームにアピールすることが重要。この時期を棒に振ってしまえば、プロへの道が遠のいてしまう。「夢を叶えるには、今、結果を残すしかない。気持ちを切り替えて夏の強化試合に挑みました。ハットトリックを達成して、インパクトを残せたし、太陽君がいなくても勝てると示せたと思います」。逆境がストライカーの才能を開花させた。

キャプテンとして惜敗から得たもの

2021年春、3年になると共にキャプテンへ就任。「以前からキャプテンになることは知らされていて、覚悟していました。上に立って盛り上げていく性格ではないので、コツコツとチームを作れたらと考えてました」と語るが、新チーム始動から間もなく監督から檄が飛んだ。「声に本気度が足りないと言われたんです。自分では本気のつもりだったので、まだ足りないのかと。今思えばやらされている意識だったのかも知れません」と振り返る。

今まで以上に声を出してチームを引っ張る木原。試合結果も付いてくるようになり、この調子ならインターハイでも結果を残せるのではと考えていた。インターハイ予選を順調に勝ち進み、迎えた東山高校との決勝戦。後半を終えて2-2、延長戦でも決着が着かずPK戦へともつれ込む。両チームとも鋭いシュートを放ち続けるも、8人目で京都橘の攻撃をキーパーが死守。PK戦8-7で惜敗を喫した。「チーム一丸となってプレイできたし、キャプテンとして体を張ってゴールも決められた。それでも届かない。心をへし折られました……」

敗戦が後を引き、その後の戦績も振るわない中で迎えた夏休みには、木原がプロチームの練習会へ参加。復帰後に行われた高円宮杯 JFA U-18サッカープリンスリーグの試合では、履正社高校に4-0で大敗してしまう。「負けた悔しさ以上に、変わらなければいけないと痛感しました」。自分たちに足りないものをチームで徹底的に話し合ったことを機に、再びチームに火が灯る。一人ひとりが積極的に声を出すようになり、試合も勝てるようになってきた。「天狗の鼻が折れたというか。いい負けだったのかも知れません。残された試合は、試合に出られない部員のためにも、応援してくれている人のためにも、今年で最後の3年のためにも、責任を持って戦いたいと思います」

プロという夢の実現と、その先に見つめるもの


取材を行ったのは2021年10月13日。10月末には、高校サッカーの頂点を決める全国高校サッカー選手権大会の予選が始まる。木原の成長を見守ってきた米澤監督は「前に出て引っぱるのが得意な選手ではない。チームを勝たせ、背負う経験をさせたくてキャプテンに指名しました。全国高校サッカー選手権の予選では、ピッチ上の監督としてチームを鼓舞したり、コントロールしたり、キャプテンとしての真価が問われると思います」と期待を寄せる。その言葉を受けて木原は「キャプテンとして、エースとして、みんなを選手権本戦へ連れて行きたい。そして、今まで京都橘が実現できていない優勝を勝ち取りたいです。その夢を実現して、プロの舞台に進めれば」(筆者注:2021年11月7日、残念ながら予選準決勝で敗退)

そう、冒頭でも述べた通り、高校卒業後は名門「浦和レッドダイヤモンズ」への加入が内定している。「夏休みに練習に参加して、足りない部分がたくさん見えたし、浦和レッズの一員になる覚悟をもっと持たなければと思いました」と、プロの戦いを見据える。また、プロになれば試合環境やトレーニングが今以上にハードなものになる。フィジカルだけではなく、体調管理も重要な要素だ。「サン・クロレラを毎朝飲んでいて、コンディションが整いました。プロになっても飲み続けたいと思います」と体調ケアにも余念がない。

幼い頃からの夢を手にした木原。しかし、プロ入りはゴールではなくスタートライン。その先にどんなビジョンを描いているのだろうか?「浦和レッズの伝統に名を残したいです。そして、日本A代表へ。世界で戦える選手を目指します」。プロ選手の中でも、ほんの一握りしか勝ち取れない世界の大舞台。世界水準の技術やフィジカルは必要不可欠だが、それ以上に、あらゆる逆境を乗り越える強い覚悟が求められる。しかし、その心配は不要のようだ。優しげな瞳の奥には、未来を切り開く熱い炎が宿っていたのだから。